消えゆく町の「人情すし屋」 高級店や回転すしチェーンの谷間で淘汰
「婦唱夫随」で店を切り盛り
永楽はチェーン店に対抗し、昼も夜も料理の価格を10年間据え置いている。昼のにぎりセットは800円から。夜は飲み物代を入れて1組あたり5000円前後。コストを抑えようと、正敏さんは毎朝、ホンダの二輪で豊洲市場に仕入れに出かける。
美味いすしを握るため、じっくりネタ選びをし、その日売れる量だけを仕入れる。長男は都内の大型すしチェーンのマネージャーを務めているが、自ら豊洲に足を運ぶことはなく、業者に大量注文しているという。
「電話とかファックスとかネットで注文したら、(価格が)3割増しだよ」。
しかし、懸命な努力にもかかわらず永楽には、昼間の常連客だったサラリーマンや町工場の従業員がずいぶん前から姿をみせなくなった。彼らの仕事が海外などに移管されたためだ。その1人だった医療関連メーカーの重役は今でも毎年、部下を通して会社のカレンダーを店に届けてくれる。しかし、そのカレンダーがかかる店内には、かつてのにぎわいはうかがえない。
午後5時、看板の明かりがつき夜の営業が始まると、みつ江さんはホワイトボードに書かれた「本日のネタ」からイワシを消した。価格が高騰しているからだ。温暖化の影響か、たまたま水揚げがないのか、不漁の年なのか、業者から返ってくる答えはいつも違うという。いずれにしても、今夜の客にイワシは握れない。
「すし屋を続けられる唯一の理由はね」と正敏さんが話し始める。「ええと、何を言おうとしたんだっけ」と傍らにいるみつ江さんに話しかける。みつ江さんはコンロにかけたみそ汁をかき混ぜながら答えた。「子どもたちはもう大きくなったし、自分の店を持ってるし、夫婦なんとか食べていけるからよ」。息の合った「婦唱夫随」が店を守り、支える原動力でもある。
いつ引退するかわからないが、2人とも長男に店を継がせるつもりはない。「息子には自分の道を歩んで、自分の家族のためにがんばってほしい」と正敏さんは語る。
2年前に子どもや孫たちと出かけたグアム旅行もたった4日間だった。福綱夫妻が何日も休むことはない。「店を閉じたと思われたくないのよ」とみつ江さんは言う。
店をたたむ作業は、人目を避け夜中に行われることが多い。近所の人々は翌朝、封鎖された入り口にはられた「長年のご愛顧に感謝します」といった走り書きをみて、現実を知る。やがてその入り口はツルに覆われ、葉が茶色く色あせ落ちる。それとともに人々の記憶からも消えていく。長年かけて育て上げた永楽を、そんな店にはしたくない。
「ぜいたくはできない」
壁の時計が8時を回った。カウンターにいた坂野隆一さん(63)が、ボトルキープしているシーバスリーガルをグラスに注ぐ。坂野さんが店に通ってもう何十年も経つ。都内のあちこちの建設現場でクレーン運転の仕事をしている坂野さんにとって、永楽は人生の伴走者のような存在だ。
「まーくん(店主の正敏さん)とは50年来の付き合い。好き嫌いが激しい私のことも知っている」。そして、坂野さんは付け加えた。「(正敏さんの)息子さんがね、『親父のすしは日本一』って言うのよ」。
この先もらえる年金は少なすぎておぼつかない。一体、いつまで働けるのだろうか。2人の会話は、いつもこの辺りの話題が中心だ。「ここら辺の人はみな年金暮らしだからね。ぜいたくはできない」と言う坂野さんに、「俺たちもすぐにそうなるよ」と正敏さんが笑いながら応じた。坂野さんは、毎朝、安全ベルトをつけてクレーンに乗り込む仕事がきついと感じるようになった。
「表通りのレストランのこと聞いた?。銀行が買い取ったんだってさ。ローンが返せなかったらしい」と坂野さんが言うと、「あの場所、どうなるのかしらね」とみつ江さんが割り込んだ。「ギョーザ屋とか、ファミレスになるんじゃないかな」と坂野さんが続けた。
師走の夜が更けすっかり暗くなった下町の一角に、永楽の温かな明かりが広がる。
「きょうは娘の誕生日なんだよ」。一人暮らしの坂野さんが家族のことを口にした。みつ江さんが黙ってうなずく。話はそこで途切れ、彼らはテレビ画面に目を向けた。
(斎藤真理 編集:北松克朗)
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