最新記事

出版

学術言語としての日本語

2018年8月23日(木)11時40分
待鳥聡史(京都大学大学院法学研究科教授)※アステイオン88より転載

TeerawatWinyarat-iStock.

<学術書が売れない状況は悪化傾向にあるが、その要因は出版事情の厳しさだけではない。もう一つの大きな問題は、日本語での学術書が占める地位が変わってきていることだが、そうであれば日本語の学術書はもう必要ではないのだろうか>

出版事情厳しき折にお引き受けいただきありがたい、というのは、学術書における担当編集者や出版社への謝辞の定番的な表現である。この表現はかなり古くからあり、厳しくない時代が直近だといつにあったのか、そもそもそんな時代はなかったのではないかという疑問は禁じ得ない。しかし、学術書を出しても売れず、出版助成を得ない限りは製作費用も回収できない状況が、改善されるどころか悪化傾向にあることは確かなのであろう。

背景にはさまざまな要因が存在するようだが、大きく分けると二つの問題に帰着するように思われる。

第一には、本を読む人や支払う金額が減っていることである。少子高齢化を伴った人口減少と、電子媒体の急激な発展や普及の挟み撃ちに遭って、印刷された本が流通する日本語の出版市場は縮小している。出版科学研究所のデータによれば、ピーク時の一九九六年に一兆一〇〇〇億円ほどあった書籍の推定販売額は、二〇一七年には七一五二億円になったという(同研究所の二〇一八年一月二五日発表。時事通信電子版記事による)。電子書籍の市場拡大は紙書籍の市場縮小に及ばず、雑誌の凋落が出版社をさらに苦しめている。

学術書の場合、このような金額に表れる一般書とは定価設定や売れ方が全く異なっており、書籍の市場縮小から直接的に打撃を受けているとはいえないかもしれない。しかし、岩波書店、講談社、中央公論新社など、一般書を扱う出版社から学術書が刊行されることも少なくない日本の出版事情を考えると、間接的な影響はやはり無視できない。

第二の、そして本稿でとくに考えてみたい要因としては、日本語での学術書が占める地位が変わってきていることである。もともと、書籍という形態で研究業績を公表する傾向は、人文社会系において強く、自然科学系において乏しかった。本になるような大きな研究成果が、いきなり書き下ろされることは珍しい。論文としていくつかの部分や原型が公表され、それに対する評価などを踏まえて書籍へとまとめていくのが通例である。原型となる論文を、自然科学系では英語で書くのに対して、人文社会系では日本語で書くことが多かったために、そのまま日本語の学術書にするという流れがあったのだと考えられる。

ところが現在、人文社会系におけるこのような流れは急激に変化している。大きな理由は、日本の学術の国際化という掛け声の下、研究業績を英語で公表すべきであるという主張が強まっていることである。関連して、英語で先鋭的な研究成果をどれだけ公表できるかが研究者の評価を決めるのであって、総説的な要素をそれに付け加えた日本語書籍を出版する意義は乏しいという意見も力を得ている。もちろん、日本語の学術書が無駄だという強い議論は稀だが、時間や労力に限界を抱える個々の研究者が、それを割いて取り組むべきこととしての優先順位は残念ながら低く抑えざるを得ない、という雰囲気は確実に強まっているように思われる(この問題を扱った注目すべき見解として、曽我謙悟「『現代日本の官僚制』のあとがきのあとがき」『UP』第五三五号、二〇一七年)。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

台湾の頼次期総統、20日の就任式で中国との「現状維

ワールド

イスラエル軍、ガザ北部で攻勢強化 米大統領補佐官が

ワールド

アングル:トランプ氏陣営、本選敗北に備え「異議申し

ビジネス

日本製鉄副会長が来週訪米、USスチール買収で働きか
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた異常」...「極めて重要な発見」とは?

  • 3

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバいのか!?

  • 4

    存在するはずのない系外惑星「ハルラ」をめぐる謎、…

  • 5

    「円安を憂う声」は早晩消えていく

  • 6

    チャールズ英国王、自身の「不気味」な肖像画を見た…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    中国のホテルで「麻酔」を打たれ、体を「ギプスで固…

  • 9

    時速160キロで走行...制御失ったテスラが宙を舞い、4…

  • 10

    英供与車両から巨大な黒煙...ロシアのドローンが「貴…

  • 1

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 2

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 5

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 6

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 7

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 8

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋…

  • 9

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 10

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中