コラム

ボスニア紛争、わらにもすがる思いに誰もが打ちのめされる『アイダよ、何処へ?』

2021年09月17日(金)16時01分

国連や有力国の支援もないまま、最悪の事態に直面する彼らは、同じような状況に追い込まれる。ダレールの手記の原題は「Shake Hands with the Devil(悪魔との握手)」。ダレールとUNAMIRは、スタジアムなどに逃げてきたツチ族の住民たちを安全な地域に移送するために、虐殺を実行しているフツ系民兵組織インテラハムウェの指導者らと交渉しなければならなかった。彼は手記でそのときの気持ちを以下のように綴っている。


「部隊司令本部への帰途、私は悪魔と握手してしまったように感じた。私たちは実際に社交的挨拶を交わした。そして悪魔に、その見るも無慈悲なその所業を誇る機会を与えてしまった。彼らと交渉してしまったことで、私自身が悪魔のようなおこないをしたという罪悪感にかられた。私の身体は、自分が正しいことをしてきたのかどうかという葛藤で、ばらばらに引き裂かれそうであった。その答えが分かるのは、一回目の住民移送がはじまったときだろう」

本作でムラディッチ将軍と会談するカレマンス大佐も同じ立場にある。だが、ふたりの司令官の姿勢には違いがある。絶望的な状況で最後まで虐殺を止めるために尽力したダレールは、帰国後PTSDと診断され、自殺未遂や大量投薬など、何年も苦しみつづけた。

激しい葛藤に苛まれ、もがきつつけるアイダ

ジュバニッチ監督のクレマンス大佐のとらえ方からは、ダレールとは違う司令官の姿が浮かび上がる。本作の冒頭には、スレブレニツァの市長とクレマンス大佐が会談するエピソードが盛り込まれている。そこで市長が、「彼らが侵攻したらあなたの責任だ」と詰め寄ると、大佐は「私はピアノ弾きだ」と答え、それを通訳したアイダが、「伝令に過ぎない」という意味だと補足する。そして市長は大佐との握手を拒む。

ムラディッチ将軍との会談に臨んだ大佐は、彼に対して迎合するような態度をとる。また、その会談中に、ムスリムの兵士が潜んでいないか確認するためにセルビア兵が基地に乗り込んでくると、電話で少佐に命じて、武装した者が基地内に入るという規則違反を許してしまう。ちなみに少し補足すると、本作では会談は1回だけのように見えるが、実際にはそれ以前に大佐はムラディッチと同じホテルで会談し、圧力をかけられ、乾杯まで強要され、相手のペースに飲まれていたとも考えられる。

そして、国連保護軍を無視した一方的な移送が始まり、セルビア兵の暴挙が明らかになったとき、大佐は茫然自失の状態に陥り、部屋に閉じこもってしまう。

それまで国連保護軍を信じていたアイダは、この状況の変化によって、どこまでも追いつめられ、引き裂かれていく。スレブレニツァが占領されたとき、男性の多くは、セルビア人勢力や地雷原を突破することが不可能に近いことを知りつつ、国連に頼ることも、ムラディッチに運命を託すことも拒み、森へと逃げた。基地に来たアイダの息子たちも、本人に決断を委ねたらそうしていたかもしれない。

通訳である彼女は、状況が最悪の方向に向かっていることを知りつつも、命令に従って基地内の住人たちを誘導しなければならない。激しい葛藤に苛まれながらも、もがきつづけるアイダのわらにもすがる思いには、誰もが打ちのめされることだろう。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

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