最新記事

いとうせいこう『国境なき医師団』を見に行く

鍋をかぶった小さなデモ隊──マニラのスラムにて

2017年4月27日(木)17時45分
いとうせいこう

やがてジェームスがエマたちに細かい質問を始めた。


インプラントと他の避妊具との使用率のデータはあるかい?


インプラントを望む女性はなぜそれを選ぶんだろう?


現在インプラントを使用している女性がすでに平均何人の子供を持っているかデータはある?

その度にエマたちは資料をひっくり返したり、コンピュータにアクセスしたり、時には残念そうに首を横に振ったりした。

ジェームスは温厚な調子でこう言った。

「フィードバックはとっても重要だと思うんだ。僕もみんなもお互いに色んなデータを知っていた方がいいし、それはバランガイの人たちにも知らせた方がいい」

彼は本当にクレバーな人間で、短い表現でずばりと活動のあるべき方向を示すのだ。

「我々はその上で選択肢を並べてみせることしか出来ないんだと思うよ。なんにせよ強制は絶対によくないことだから」

そう言ってからジェームスは座ったまま巨体をわずかにこちらへよじり、眼鏡越しのくりくりした目を俺の胸あたりに向けて言った。

「この場所に関してはインフラ重視ではなく、どこにでも出かけていけるモバイルクリニックを厚くしているんだ。で、もう一人医師を補充出来れば子宮頸癌のプロジェクトにも着手出来る」

ジュニーが横で大きくうなずいた。 

雨音

ジェームスたちがエマからさらに具体的な医療に関する聞き取りを始めたので、俺はよくわからなくなって入り口近くの受付あたりにふらっと戻った。外から強い雨音がした。ドアは半分以上開け放たれていた。プラスチック椅子に若い女性患者が二人来ていて、ともに赤ん坊を抱いていた。電気はつけられておらず、空気は湿気っていた。

やがて受付の女性が小さく鼻歌を歌い出した。それが雨の音と重なると自分の気持ちまで湿ってくるように感じた。バイクが行き過ぎる音がした。鶏が鳴いた。鼻歌はまだ続いている。

五十五歳の俺は暗がりに立ち、自分が子供であるように今度は肌全体で実感していた。雨の日にいじけた気持ちになって一人で部屋で留守番していた思い出が、ほとんど思い出でなくその時間そのものとなってなぜか異国で俺を包んでいるのだった。

俺はもう俺ではなく、いや逆に本当の俺は子供で見知らぬスラムにおり、それが想像上の豊かな国に住む中年の俺を一瞬夢見ているようにも思った。暗がりと雨と女性の鼻歌と赤ん坊の匂いがそうさせていた。

雨は続いた。

<続く>

profile-itou.jpegいとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米マスターカード、1─3月1株利益が市場予想超え 

ビジネス

日経平均は続落で寄り付く、米ハイテク株安や円高が重

ビジネス

テスラの「ギガキャスト」計画後退、事業環境の逆風反

ワールド

ロシア、ウクライナで化学兵器使用 禁止条約に違反=
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    「2枚の衛星画像」が伝える、ドローン攻撃を受けたロシア空軍基地の被害規模

  • 2

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 3

    ロシアの大規模ウクライナ空爆にNATO軍戦闘機が一斉起動

  • 4

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる…

  • 5

    ポーランド政府の呼び出しをロシア大使が無視、ミサ…

  • 6

    米中逆転は遠のいた?──2021年にアメリカの76%に達し…

  • 7

    ロシア軍の拠点に、ウクライナ軍FPVドローンが突入..…

  • 8

    「レースのパンツ」が重大な感染症を引き起こす原因に

  • 9

    パレスチナ支持の学生運動を激化させた2つの要因

  • 10

    大卒でない人にはチャンスも与えられない...そんなア…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドローンを「空対空ミサイルで撃墜」の瞬間映像が拡散

  • 4

    AIパイロットvs人間パイロット...F-16戦闘機で行われ…

  • 5

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる…

  • 6

    日本マンガ、なぜか北米で爆売れ中...背景に「コロナ…

  • 7

    「すごい胸でごめんなさい」容姿と演技を酷評された…

  • 8

    中国の最新鋭ステルス爆撃機H20は「恐れるに足らず」…

  • 9

    「2枚の衛星画像」が伝える、ドローン攻撃を受けたロ…

  • 10

    ウクライナ軍ブラッドレー歩兵戦闘車の強力な射撃を…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 6

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 7

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 10

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中