最新記事

BOOKS

『悪童日記』訳者・堀茂樹と「翻訳」の世界をのぞく──外国語に接することは「寛容の学校」

2020年2月4日(火)18時05分
Torus(トーラス)by ABEJA

堀:翌89年、日本に帰ってから三つの出版社に『悪童日記』の企画を持ち込みました。運よくそのうちの1社の文芸編集者が本気で「本にします!」と言ってくれ、出版が決まりました。

その段階で初めて、翻訳とはなんぞや、ということを根本的に考えることになった。というか、考えざるを得なくなりました。そして、全編を一から訳し直すことに決めました。

Torus_hori6.jpg


──既に訳した原稿があったのに、ですか?

堀:最初の訳文は、直訳というのとは違うけど、原文重視がマニアック過ぎるというか、フランス語の字面に密着しすぎたものでした。いわゆる「直訳」は、辞書的に言葉を別の言語に置き換えているだけで、まったく「忠実な訳」とは言えません。

では忠実な訳とは何かと言えば、ひとつひとつの単語や表現レベルで忠実ということではなくて、例えば『悪童日記』なら、そのフランス語のテクスト全体が含んでいる意味作用やイメージ喚起を、日本語の世界で起こすことに成功しているもののことです。

センテンス単位で「これは名訳だ」とか評価することには、まったく意味がない。

ちょっと分かりづらいかもしれませんが、本居宣長の言葉に「姿は似せがたく、意は似せやすし」というものがあります。翻訳はあくまで「模写」で、決してオリジナルにはなれません。でも、特に文芸翻訳は、テクストの意味だけでなく、姿まで似るように工夫しなければならない。

それは、原作者がもし日本語で書いたらこう書くだろうという訳文を目指すということです。もっと厳密に言えば、原語のネイティヴがその本を読んでいる時に頭の中に意味やイメージが流れていきますね、その体験と近似的な体験を日本語の読者にもしてもらうように仕組むということです。

Torus_hori7.jpg


──翻訳者は、読者にとっては国外の作品のメディエーター(仲介者)でもあり、責任重大ですね。それにしても、姿を似せるというのは、一番難しい作業です。

堀:そうなんです。身も蓋もないですが、これは結局、訳者の器量というか、読書歴や生活経験、人生といった全人格的なものに依っていると言うほかありません。

それでいて、矛盾するようですが、翻訳者は自分を出してはいけない。自分を透明にしなければならないんです。翻訳者はあくまで黒子であり、読者をあちらの言語体系からこちらの言語体系へと橋渡しする役、つまり渡し船の渡守の役割に徹しなければならない。

いわゆる「超訳」は、訳者の傲慢の産物です。上から目線でテキストを素材のようにこね回し、僭越にもわがまま自分の思うように日本語をでっち上げてしまっている。脇役でなければならないのに、自分が主役になろうとしてしまっている。超訳も、直訳同様、忠実な訳とは言えません。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

金融デジタル化、新たなリスクの源に バーゼル委員会

ワールド

中ロ首脳会談、対米で結束 包括的戦略パートナー深化

ワールド

漁師に支援物資供給、フィリピン民間船団 南シナ海の

ビジネス

米、両面型太陽光パネル輸入関税免除を終了 国内産業
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 2

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史も「韻」を踏む

  • 3

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダブルの「大合唱」

  • 4

    羽田空港衝突事故で「日航の奇跡」を可能にした、奇…

  • 5

    マーク・ザッカーバーグ氏インタビュー「なぜAIを無…

  • 6

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 7

    それでもインドは中国に勝てない...国内企業の投資意…

  • 8

    総額100万円ほどの負担増...国民年金の納付「5年延長…

  • 9

    老化した脳、わずか半年の有酸素運動で若返る=「脳…

  • 10

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 1

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 2

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋…

  • 5

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 6

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 7

    「恋人に会いたい」歌姫テイラー・スウィフト...不必…

  • 8

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 9

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 10

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 7

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

  • 10

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中