コラム

米中貿易戦争は無益なオウンゴール合戦

2018年07月19日(木)16時20分

そもそもトランプ政権が掲げる「貿易赤字の解消」という目標は、もしアメリカが途上国なのであれば合理的な目標だが、世界最強国のアメリカには不要であり、むしろ実現しないほうがいいものである。アメリカは今世紀に入ってから毎年4000~7000億ドルという巨額の貿易赤字(財とサービスの合計)を続けている。こんなことが可能になるのはアメリカが世界一の強国で、その通貨である米ドルを世界じゅうの人が喜んで受け取ってくれるからだ。

貿易赤字ということは、その裏でアメリカが他国からお金を借りて、輸出を上回る輸入分の支払いに充てていることを意味する。普通の国でこんなに貿易赤字が続けば、やがて外国の人々はこの国が信頼できなくなり、お金を貸してくれなくなる。するとその国の通貨の為替レートが下落する。すると外国からの借金の返済負担がますます増え、借金地獄に陥って、その国は破綻する。途上国がそうした状態に陥ったケースは少なくない。

しかし、アメリカだけはそうならない。途上国の場合は他国の通貨を借りて借金するが、アメリカは自国通貨の米ドルを相手に渡すだけでいい。紙幣とは国家の借用証書であるが、アメリカはその価値が下落することを気にせずに世界中にばらまくことができる。アメリカの強大な国力のゆえに、アメリカが多大な借金を抱えていても米ドルを受け取る相手はその価値が下落するとは心配していない。

アメリカの貿易赤字とは、アメリカが持っているこうした特権の反映である。こんな特権がいつまで続くのかと心配するのはいいが、中国を叩くことは貿易赤字の解消にはつながらず、世界に混乱をもたらすだけである。

中国でも強硬派が台頭

一方、中国はアメリカの圧力に対して当初は経済の開放を推進するとして、関税の引き下げや自動車、銀行、保険分野での外国企業に対する出資比率規制の撤廃で応じた。そうした歩み寄りによってアメリカの通商法301条の発動はいったんは回避されるかに見えたが、結局7月6日に発動されてしまうと、中国もすぐに報復した。

実は中国の側でも強硬な意見と協調的な意見とが拮抗しているようである。強硬派の意見によれば、日本が1990年代以来「失われた20年」と言われるような長い経済の停滞に見舞われたのは、1980年代~90年代の日米貿易摩擦のなかでアメリカの圧力に負けて譲歩したからだという。その含意は、要するにアメリカは世界第2位の国が迫ってくるとそうやって叩き落そうとするのだから、今回の米中貿易摩擦ではアメリカの圧力に負けてはならないということである。

私は「失われた20年」に対するこの解釈は間違っていると思うのだが、アメリカが露骨に中国を抑えつける政策をとればとるほど、中国の側でも強硬派の意見が力を増してくるのは避けがたい。中国の報復関税が効果的でありうるのはアメリカの通商法301条発動を抑止する脅しとしてのみであって、実際に発動したらこれも中国国民を苦しめるだけのオウンゴールであることは前回のこのコラムで指摘した(「米中貿易戦争・開戦前夜」)。にも関わらずそれが発動されたのは、中国のなかで強硬派の意見が強まっている証拠である。

アメリカと中国はこのまま無益なオウンゴール合戦にもつれ込んでいくのだろうか。

【お知らせ】ニューズウィーク日本版メルマガのご登録を!
気になる北朝鮮問題の動向から英国ロイヤルファミリーの話題まで、世界の動きを
ウイークデーの朝にお届けします。
ご登録(無料)はこちらから=>>

プロフィール

丸川知雄

1964年生まれ。1987年東京大学経済学部経済学科卒業。2001年までアジア経済研究所で研究員。この間、1991~93年には中国社会学院工業経済研究所客員研究員として中国に駐在。2001年東京大学社会科学研究所助教授、2007年から教授。『現代中国経済』『チャイニーズ・ドリーム: 大衆資本主義が世界を変える』『現代中国の産業』など著書多数

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

中国、超長期特別国債1兆元を発行へ 景気支援へ17

ワールド

ロシア新国防相に起用のベロウソフ氏、兵士のケア改善

ワールド

極右AfDの「潜在的過激派」分類は相当、独高裁が下

ワールド

フィリピン、南シナ海で警備強化へ 中国の人工島建設
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:岸田のホンネ
特集:岸田のホンネ
2024年5月14日号(5/ 8発売)

金正恩会談、台湾有事、円安・インフレの出口......岸田首相がニューズウィーク単独取材で語った「次の日本」

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 2

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 3

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国の研究チームが開発した「第3のダイヤモンド合成法」の意義とは?

  • 4

    地下室の排水口の中に、無数の触手を蠢かせる「謎の…

  • 5

    年金だけに頼ると貧困ライン未満の生活に...進む少子…

  • 6

    ブラッドレー歩兵戦闘車、ロシアT80戦車を撃ち抜く「…

  • 7

    横から見れば裸...英歌手のメットガラ衣装に「カーテ…

  • 8

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 9

    アメリカでなぜか人気急上昇中のメーガン妃...「ネト…

  • 10

    「終わりよければ全てよし」...日本の「締めくくりの…

  • 1

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 2

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 3

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地ジャンプスーツ」が話題に

  • 4

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋…

  • 5

    「恋人に会いたい」歌姫テイラー・スウィフト...不必…

  • 6

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 7

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 8

    ウクライナ防空の切り札「機関銃ドローン」、米追加…

  • 9

    日本の10代は「スマホだけ」しか使いこなせない

  • 10

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 5

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 6

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 7

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story