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ソ連を脱したバルト諸国の発展を見よ
バルト諸国に滞在していると、彼らが占領されていた国であるということ(ソ連にも、ナチスドイツにも)、彼らが比較的最近になって独立を達成したこと、そして彼らが自由を「勝ち取った」こと、その自由を手放したくないこと、などに絶えず気付かされる。
あちこちの博物館や記念碑には、その国が第1次大戦後にいかにして成立し、その後スターリンの赤軍に占領され、最終的にソ連崩壊でいかにして再建されたか、が克明に記録されている。たとえば、(リトアニア第2の都市)カウナスで僕は、1940年までリトアニア大統領官邸だった建物の前に広がる、いい感じの公園に出くわした。その時代の写真ポスターが何十枚も飾られていて、ソ連侵攻前の20年間、リトアニアが広く認められた独立国家であることを描写するものが多かった。またリトアニアは、外国からの度重なる占領でひどい扱いを受け、破壊されていたリトアニア大公宮殿を、多額の資金を費やして復元した。
彼らの加盟はNATOにとっても有意義
バルト諸国のどの国に行っても、ソ連支配に何十年も抵抗し続けた反共ゲリラ「フォレスト・ブラザーズ(森の兄弟)」と呼ばれるグループの話を耳にすることだろう。それに、KGBの非道な行いや集団国外追放、ロシア民族を大量に送り込むことによってバルト諸国のアイデンティティーへの攻撃が行われたことについても何度も聞くことになるだろう。
1990年代初頭には、数多くの圧力を受けてヨーロッパの共産主義が崩壊していった。それは明らかな経済的失策だった。プロパガンダと現実の間の不快な乖離、ポーランドの労組「連帯」による民主化運動とローマ法王(教皇)ヨハネ・パウロ2世によるその支持、冷戦の戦士としてのレーガン米大統領とサッチャー英首相による2大協力体制、東ドイツ人にオーストリアへの国境を開放したハンガリーと、東ドイツ人の大量亡命......。
バルト諸国の国民も重要な役割を果たした。一方ではエストニア人のパンクロックの若者たちが、他方ではフォークミュージックのフェスティバルが、独立国家実現への切望を訴え、権威主義への抵抗を呼び掛けた。ラトビアでは、1991年に誕生した独立政府の建物をロシア軍から守るために建造されたコンクリートのバリケードの一部が今も残っている。リガの都市のあちこちに設置された、いわば「逆ベルリンの壁」であり、市民を閉じ込めるためではなく市民を守るために使われたのだ。
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