コラム

ブレグジット後の「揺れ戻し」を促す、英メイ首相のしなやかな政治手腕

2016年12月26日(月)17時40分

 この補欠選挙は、今年10月25日にメイ首相(保守党)がヒースロー空港第3滑走路の建設推進を決定し(時系列はこちらから)、それを受けて、かねてから第3滑走路建設となれば議員を辞するとしてきたゴールドスミス氏が辞職したという背景があります。日本ではこの補欠選挙はほとんどニュースとして伝わってなかったようですし、中には単なる空港拡張工事の賛否を問う選挙かのような報道もみかけましたが、空港問題ならオルニー/ゴールドスミス両候補とも反対ですから、そうした分析は適当ではありません。

 オルニー氏はよりマイルドな形でのブレグジットを望むとの主張を掲げる一方、ゴールドスミス氏はEU離脱派の中心人物であるボリス・ジョンソン氏(前ロンドン市長、現外務大臣)の「お仲間(ロンドン市長選ではジョンソン氏がゴールドスミス氏を応援するツーショット写真もある)」で、離脱派の象徴的な人物です。今回の補欠選挙では、2015年の総選挙で保守党に、2016年の国民投票でEU離脱に投票した3割のリッチモンドパーク地区の有権者が一転、オルニー氏に投票したとの分析もありました。実のところ、これからのブレグジットの方向を少なからず左右すると目されてきたのがこの補欠選挙であり、選挙結果が確定した後の現地報道では「BREXIT Backlash(離脱からの強い揺り戻し)」との単語が目立ちましたが、一度決定した ブレグジットへの激しい反発、反感が現れた補欠選挙結果と言えるでしょう。

【参考記事】不安なイギリスを導く似て非なる女性リーダー

 ゴールドスミス氏が以前在籍し、メイ首相が率いている保守党は、「ソフトブレグジット(移民政策はEUの意向を一部反映する代わりにEU市場へのアクセスを維持する)」ではなく、「ハードブレグジット(移民の入国制限を念頭にイギリス自身が国境管理を実施、代わりに無関税貿易などEU単一市場へのアクセスは諦めEUと手を切る)」の意向を示してきました。今回の補欠選挙でEU残留派の怒りが噴出した結果、メイ首相のかじ取りは難しさを増すといった指摘もありますが、それも少し違うのかなと思うのです。と言うのも、もともとメイ首相自身はEU残留派で、首相になってからの強硬路線は本意とは違うと考えられるためです。

 うがった見方をすれば、首相就任後に自身の政治信条はいったん封印して、敢えて「ハードブレグジット」を打ち出すことで、国民選挙の投票結果への敬意を評し、EU離脱に投票したとされる社会から締め出された「持たざる者(have-nots)」への理解を最大限に示しつつ、EU残留派の反発・反動を誘引する原動力となった可能性があります。振り子の法則で考えれば、大きく振れた直後にはその反動で大きく反対に振れやすいわけで、中途半端な「ソフトブレグジット」を掲げてマイルドな揺り戻しに留めるのではなく、「ハードブレグジット」で振り切ってしまった方がその反作用も大きくなります。実際、今回の選挙で結果的にEU離脱の最もハードかつ象徴的な1人の政治家の進路が断たれたことで、無論1人の脱落で何かが決定的に変わる訳ではありませんが、メイ首相の元来の政治信条により近い「ソフトブレグジット」路線への切り替えがしやすくなるという事実は残ります。

 メイ新首相が誕生直後、彼女の政策や政治スタンスよりも「おしゃれ番長」と称してそのファッションセンスなどの瑣末な報道が日本国内で目に付いたのは、適宜情報収集がなされてないためと察しますが、相当な政治手腕とバランス感覚に秀でた政治家であるのは間違いなさそうです。実はメイ政権はゴールドスミス氏の補欠選挙に閣僚が応援に入ることを阻止していたとの報道もありました。「お仲間」のボリス・ジョンソンも応援に駆け付けることができなかったわけで、ハードなEU離脱派とは完全に一線を画しているようです。

プロフィール

岩本沙弓

経済評論家。大阪経済大学経営学部客員教授。 為替・国際金融関連の執筆・講演活動の他、国内外の金融機関勤務の経験を生かし、参議院、学術講演会、政党関連の勉強会、新聞社主催の講演会等にて、国際金融市場における日本の立場を中心に解説。 主な著作に『新・マネー敗戦』(文春新書)他。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米EV税控除、一部重要鉱物要件の導入2年延期

ワールド

S&P、トルコの格付け「B+」に引き上げ 政策の連

ビジネス

ドットチャート改善必要、市場との対話に不十分=シカ

ビジネス

NY連銀総裁、2%物価目標「極めて重要」 サマーズ
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受ける瞬間の映像...クラスター弾炸裂で「逃げ場なし」の恐怖

  • 2

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS攻撃「直撃の瞬間」映像をウクライナ側が公開

  • 3

    サプリ常用は要注意、健康的な睡眠を助ける「就寝前の適切な習慣」とは?

  • 4

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 5

    ウクライナ軍ブラッドレー歩兵戦闘車の強力な射撃を…

  • 6

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミ…

  • 7

    「TSMC創業者」モリス・チャンが、IBM工場の買収を視…

  • 8

    ロシア軍の拠点に、ウクライナ軍FPVドローンが突入..…

  • 9

    元ファーストレディの「知っている人」発言...メーガ…

  • 10

    「500万ドルの最新鋭レーダー」を爆破...劇的瞬間を…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドローンを「空対空ミサイルで撃墜」の瞬間映像が拡散

  • 3

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる4択クイズ

  • 4

    AIパイロットvs人間パイロット...F-16戦闘機で行われ…

  • 5

    日本マンガ、なぜか北米で爆売れ中...背景に「コロナ…

  • 6

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士…

  • 7

    「2枚の衛星画像」が伝える、ドローン攻撃を受けたロ…

  • 8

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 9

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 10

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 6

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 7

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story