コラム

エジプト:祭りの後、でもまたいつでも祭りは起きる

2011年02月14日(月)12時52分

 とうとうムバーラクが辞任した。

 1月25日の大規模デモ以来、繰り返される民衆の抗議に押されながらも三週間弱、権力に固執し続けたが、くしくもイラン革命と同じ日、ムバーラク政権は民衆に倒される形となった。

 暫定政権を担うのが軍であることには代わりがない。憲法や議会など、政治システムの変革がどう進められるかは、未知数だ。長い目で見たら何も変わらなかった、という結果にならない保証はない。

 だが、今後どのような変化が訪れるにせよ、今回民衆運動の勝利が、決定的にエジプト社会の政治意識を変えたことは間違いない。

 第一には、普通の人々が体制に挑戦することを恐れなくなったことだ。アラブの長期政権のほとんどが生き延びてきた理由は、現政権が倒れたときに訪れるであろう混乱と変動に、人々が恐怖を抱いたからである。慣れ親しんだコネ関係、暗黙のうちに了解される「超えてはいけない一線」――。長年のゲームルールがなくなったら無秩序に覆われるのでは、と考えて、人々は仕方なく制約を受けて入れてきた。その恐怖が、エジプト人たちの意識から、振り払われたのである。

 第二には、陰謀論的無力感が、消えたことである。国際社会はイスラーム主義台頭の脅威やイスラエルに対する不利益を口実にして、アラブの長期政権の存続を容認している、という陰謀論的な(いや、かなりの部分事実だが)無力感が、アラブ世界では蔓延してきた。だがムバーラクの生き延び口実が説得力を持たなかったことで、何もできないのは国際社会のせい、という諦念感を克服することができた。

 第三には、反体制デモは楽しく参加できる、という例を作ったことだ。退陣を求めてタハリール広場に集まった群衆の映像や動画を見ると、どんなに緊迫した状況でも歌ったり踊ったり、とても楽しそうである。まるで「20世紀少年」で群集が「グータララ、スーダララ」と歌い集うシーンのようだ。「ウィーアーザワールド」的な作りの画像の、歓喜の歌もある。

 なによりも、参加者が非暴力に徹していた。トルコのMilliyet紙がデモ隊の笑えるシーンを特集していたが(http://www.milliyet.com.tr/fotogaleri/43675-yasam-meydan-savasi-silahlari/1)、ヘルメット代わりに頭にペットボトルを乗っけたり、ビール瓶を運ぶプラスチックケースを被ったり、果ては交通標識を盾に使ったり、身を守るのに武器ではなく知恵と工夫を駆使する様子が微笑ましい。

 そのことは、第四に、恨み辛みが運動の原動力にならなかったことにつながる。独裁体制が追い詰められたとき、多くの場合、反対者たちは過去の弾圧の記憶を総動員して、独裁者に報復を図ってきた。かつて最も弾圧されたものが最も報復の権利があるのだ、といった心理が、反政府運動のあいだに働く。このことは、その後の権力抗争を「旧体制下での被害自慢合戦」という不毛な戦いに陥らせやすい。だが、今のエジプトは、そうした「被害者の報復」感からは無縁である。

 最後に、そして最も重要なことは、政府を追い詰めるために集まった人たちが、そのまま権力を目指そうとしていないことだ。冷戦時代の「革命」では、右も左もイデオロギーを掲げた人々が自らのイデオロギーを政治に実現しようと、政権を目指した。イスラームがすべての解決だと考える人々は、社会運動からイスラーム体制の実現を目指した。しかし、今回タハリール広場に集まった人々は、変化が確認できたら家に帰るだろう。大統領の椅子に座ることではなく、家族が待つ暖かい我が家に帰る。体制を転覆しても、新しい体制の権力を握ることには関心がない。

 つまり、人々は簡単に、楽しく政府批判をし、祭りが終わったら家に帰るけれども、「祭りの後」が夢見たものと違っていたら、また簡単に政治批判に立ち上がる―─。今後のエジプト政権が相手にするのは、そういうことを経験してしまった「新しい」市民である。暫定政権が現状維持、改革の先延ばしを選んで、「結局何も変わらなかった」ことにしたいと思ったとしても、祭りの楽しさに覚醒した人々を相手にしていかなければならないことを前提とすれば、やはり新しい政治にならざるを得ないはずである。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

台湾の頼次期総統、20日の就任式で中国との「現状維

ワールド

イスラエル軍、ガザ北部で攻勢強化 米大統領補佐官が

ワールド

アングル:トランプ氏陣営、本選敗北に備え「異議申し

ビジネス

日本製鉄副会長が来週訪米、USスチール買収で働きか
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバいのか!?

  • 3

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイジェリアの少年」...経験した偏見と苦難、そして現在の夢

  • 4

    「まるでロイヤルツアー」...メーガン妃とヘンリー王…

  • 5

    時速160キロで走行...制御失ったテスラが宙を舞い、4…

  • 6

    チャールズ英国王、自身の「不気味」な肖像画を見た…

  • 7

    英供与車両から巨大な黒煙...ロシアのドローンが「貴…

  • 8

    日本とはどこが違う? 韓国ドラマのオリジナルサウン…

  • 9

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 10

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 1

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 2

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 3

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 4

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 5

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 6

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 7

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 8

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 9

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 10

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 4

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 5

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 6

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 7

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story