コラム

反コロナ・デモに揺れるベルリンで、ハンナ・アーレント展が示すもの

2020年09月04日(金)16時30分

ヨーロッパにおいて、事実(Fact)、偽物(Fake)、そしてフィクション(虚構=Fiction)はすべてラテン語の動詞、facio(作る)、facere(創造する)、feci(行う)、そしてfactum(作られる)から派生した。事実とフェイクは共に作られたものであり、すべてはフィクションだということである。これは20世紀のメディアの進化に伴い、新聞やテレビが「真実の守護者」になるまでのコモンセンスだった。しかし、21世紀になり、その真実の守護者であるメディアもまた、フィクションに振り回され、真実は情報の信頼性という意味に変化した。

ナチスの宣伝省を統括したヨーゼフ・ゲッベルスは、「一度嘘をつくことは嘘でしかないが、1,000回言った嘘は真実になる」と語った。アドルフ・ヒトラーもまた、「1つの基本的な原理を常に念頭に置かない限り、ほとんどの宣伝手法はまったく成功しないだろう。成功には、いくつかの重要な焦点に自分自身を閉じ込め、何度もそれを繰り返す必要がある」と『我が闘争』の中で述べている。

脱フィクションは可能か?

ヨーロッパでは、その文化的、宗教的理由が何であれ、マスクを着ける人物は、公然と自らを隠す必要のある人物か、感染症にかかっている人と見られてしまう。しかし、コロナ・パンデミックの現在、誰もが潜在的な危険人物として扱われ、皆マスクを着用する義務を負う。今では、あらゆる店舗や美術館に入場する際、ヨーロッパ人の誰もがマスクの着用と社交距離を遵守する義務がある。

パンデミックの只中に展覧会を開くことは、危機と恐怖の時代に公の生活を維持することであり、それはアーレントが長年取り組んだ挑戦だった。訪問者は、マスクを着用し、他の人との距離を一定に保ち、日時指定のチケットを事前にオンラインで予約して、ゲストの数は制限される。この奇妙な時期に、アーレントのスローガン「人には服従する権利はない」(1964)が展覧会の宣伝ポスターに使用された。これはコロナ規制への皮肉ではなく、服従する権利や義務を主張したとしても、犯罪は消えないことを意味している。

アーレントにとって、自分自身の判断を形成することは政治的行動と同義だった。生きている民主主義は、特にそれが大多数と矛盾するとき、自分の判断に基づくからだ。アーレントは「服従ではなく、自身を判断すべき」と述べ、倫理的結果を伴う事件との自己関係は、この相互的な条件から生じていると主張した。

ジャーナリズムの少なくとも一部は、現在進行中のパンデミックを高視聴率やクリック数を増やす道具とし、恒久的な警告システムへの道を歩んでいる。これは、ナチス政権を生み出したプロパガンダの手法と同じであるとの懸念の中、民主主義社会にとって脅威となる問題である。

フェイクニュースが真実に代わって氾濫し、ソーシャルメディアが時代の病巣を増幅する時代だからこそ、マスコミは、単にウィルスやパンデミックの拡声器ではなく、アーレントがその人生をかけて貫いた「民主主義の話者」であるべきだ。ベルリンのデモは、陰謀論者の扇動によって集まった人々だけでなく、民主主義の真実を求める市民によるものだった。


プロフィール

武邑光裕

メディア美学者、「武邑塾」塾長。Center for the Study of Digital Lifeフェロー。日本大学芸術学部、京都造形芸術大学、東京大学大学院、札幌市立大学で教授職を歴任。インターネットの黎明期から現代のソーシャルメディア、AIにいたるまで、デジタル社会環境を研究。2013年より武邑塾を主宰。著書『記憶のゆくたて―デジタル・アーカイヴの文化経済』(東京大学出版会)で、第19回電気通信普及財団テレコム社会科学賞を受賞。このほか『さよならインターネット GDPRはネットとデータをどう変えるのか』(ダイヤモンド社)、『ベルリン・都市・未来』(太田出版)などがある。新著は『プライバシー・パラドックス データ監視社会と「わたし」の再発明』(黒鳥社)。現在ベルリン在住。

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