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「夜中に甘いものが食べたい!」 欲望に駆られたとき愚者は食べ、凡人は我慢する。では賢者は?

2021年3月24日(水)21時00分
山本芳久(東京大学大学院総合文化研究科教授、哲学者) *PRESIDENT Onlineからの転載

「節制」はどうすれば身につくか

──「節制」がよいものだというのはわかりますが、むしろ問題は、どうすればそれを身につけることができるかでしょう。

トマスやアリストテレスは、「節制」などの徳は「習慣」の積み重ねによって形成されると考えます。たとえば大好きなスイーツが冷蔵庫にあるとき、「食べる」か「食べない」か、どちらを選択するかは、人生全体のなかで見れば些細ささいなことのように見えて、実はそうではないのです。

──いくらなんでも、人生全体のなかでみれば、些細なことでしょう。

人間がそうした分かれ道に直面して、どちらかの選択肢を選ぶかということは、そのときにたまたまどちらかの選択肢を選んだということで終わるものではありません。選んだ方の選択肢を選びやすくなるような「習慣」が形成されてくるのです。

そうすると、次に似たような状況に直面したさいにも、そちらの選択肢を選びやすくなってくる。そうした仕方で、どんどんある選択肢を選びやすくなるような性格や人柄が形成されてくることになるわけです。私たちが毎日行っている一見些細な選択が、実は人生全体の在り方へと直結しているのです。

──うーん、厳しいですね。

「習慣」は、単なる惰性ではなく、もっと積極的な意味を持っています。アリストテレスは言葉遊びを兼ねて、「エートス(人柄・性格)」は「エトス(習慣)」を少し語形変化させることによって得られると述べています。

いわば人間とは「習慣のかたまり」であって、その人が積み重ねてきた習慣がその人らしさを形成している。ですから善い習慣を身につけることは、善く生きるうえで決定的に重要なのです。

「アクラシア」と「アコラシア」

──自分が「節制」を身につけられるかどうかは別にして、お話はだいたい理解できました。ところで、さきほど見せていただいた図表で、カタカナで書かれている「アクラシア」「アコラシア」というのは何ですか?

「アクラシア」というギリシア語は、「無抑制」とか「抑制のなさ」などと訳されます。俗な言い方をすれば、「分かっちゃいるけどやめられない」という状態のことです。つまり、何かが善くないということが頭では分かっているのにそれをしてしまうという在り方のことです。

──「分かっちゃいるけどやめられない」とは、まさに私のことです。

「抑制ある人」と「抑制のない人」には共通点があります。どちらも、「理性」と「欲望」との葛藤があるという点です。そのうえで、「理性」が「欲望」に打ち勝つのが「抑制ある人」で、「理性」が「欲望」に負けてしまうのが「抑制のない人」ということになります。

他方、「アコラシア」というギリシア語は、「放埒(ほうらつ)」「自堕落」を意味します。喜ぶべきではないものに喜びを感じたり、度を越して快楽を追求したりすることが、生きていくうえでの基本原理になっているような在り方のことです。

自堕落な人は欲望を追求することによって、自らの心身の健康を害したり、あるいは他人を傷つけたりしようとも、後悔することがありません。そもそも「理性」と「欲望」の葛藤もないのです。「理性」が「欲望」の奴隷になり、欲望を満たすための道具のようになってしまっているのです。

「節制」が欲望を整え、喜びを生み出す

──「分かっちゃいるけどやめられない」という葛藤があるうちは、まだ理性の健全さが保たれているけれども、「アコラシア」の場合は、そもそも理性の健全性が損なわれてしまっているわけですね。

そうです。そして、「節制ある人」の場合には、「理性」が健全な在り方をしているだけではなく、「欲望」もまた徳によって整えられているので、葛藤がないのです。

books20210322.jpgしかも、この徳を身につけることによって、「喜び」が感じられるようになるわけですから、「節制」は「喜び」を抱いて真に幸福な人生を安定的・持続的に送っていくために不可欠な要素だということになります。

──たしかにエリートと言われる人は、節制を楽しんで生きている人が多いように見えますね。『神学大全』にそんな身近なことが書いてあるとは意外でした。

トマスの哲学は、キリスト教信仰の有無とはかかわりなく、人生を肯定的に生きていくうえの智慧がいっぱい詰まっています。ぜひ日本の読者の方々にも、トマスの哲学に触れてほしいと思っています。

山本芳久(やまもと・よしひさ)

東京大学大学院総合文化研究科教授、哲学者
1973年、神奈川県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員などを経て、現職。専門は哲学・倫理学(西洋中世哲学・イスラーム哲学)、キリスト教学。主な著書に『トマス・アクィナスにおける人格の存在論』(知泉書館)、『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会)、『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書、サントリー学芸賞受賞)、『キリスト教講義』(若松英輔との共著、文藝春秋)など。


※当記事は「PRESIDENT Online」からの転載記事です。元記事はこちら
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