コラム

フェミニズム映画『バービー』が政治的配慮の末に犯したミス

2023年08月16日(水)14時45分

1つは、夢の世界「バービーランド」と正反対の「リアル・ワールド」では、大統領がビル・クリントンとされていることです。これは、90年代という記号であるだけではないと思います。

仮に、その大統領が架空の人物であれば、ハリウッド的な仮想現実の作り方としては、あまり面白くありません。かといって、ジョージ・W・ブッシュであったら、やはり党派的と批判されてしまうでしょう。そこで、男性支配の社会の象徴としてクリントンを持ってきたというのは、一種の保守派への配慮となっていると思います。

2点目は、主題歌です。この映画には明らかな主題歌があります。重要なシーンで登場人物がその歌を歌うという瞬間があります。

その歌は『Closer to Fine』という曲で、1990年代を駆け抜けていった伝説のデュオ「インディゴ・ガールズ」の1989年のヒット曲です。様々な毀誉褒貶に晒されつつも、90年代という時代にLGBTQの権利を主張して歌い続けてきた彼女らの曲は、ある意味ではこの映画のスピリットを象徴していると言えます。

サントラでは、オリジナルではなく、LGBTQコミュニティーをリードする当代の人気女性歌手ブランディ・カーライルが、同性婚パートナーのキャサリンさんとのデュオで、端正でウォームな歌唱を披露しています。しかしこの『Closer to Fine』(意訳をするのなら、「当たり前へ少しでも近づこう」)ですが、エンドロールでは出てこず、重要な歌であるにもかかわらずサントラでもデラックス版にしか収録されていません。

さまざまな自主規制

こうした措置には、本作がフェミニズムの映画ではあっても、LGBTQの権利主張を前面に押し出した映画ではないという「自主規制」をした可能性があると思います。現時点では、とにかく映画が大ヒットとなり、関係者の政治的発言力もパワーアップしてきているはずです。そうなると、来年春のオスカーで、このカーライルが歌う『Closer to Fine』が主題歌賞の候補になるかもしれません。この点は注目していきたいと思います。

自主規制と考えられる点は他にもあると思います。例えば映画の論点をフェミニズムに絞るために、LGBTQの要素を軽めにしたと同時に、人種や多文化の問題を無理に押し込まなかったということも「気遣い」の一つと言えるかもしれません。

いずれにしても、ここまでフェミニズム思想、それも明らかに現在のアメリカのリベラル思想の延長としてのフェミニズムを前面に押し出しながら、アメリカの保守派を大きくは怒らせず、上映禁止運動などの雑音を排除したのは見事だと思います。

ただ、一言だけ言わせていただくのであれば、そのような「保守派への配慮」が、無関係な映画『オッペンハイマー』と一体化した一部ファンの「バーベンハイマー」騒動を許容することとなった可能性は否定できません。SNS対策などには専門的なノウハウを持つ人材をあてているはずの大手スタジオが、炎上ミスを犯した背景にはそのような「スキ」があったのかもしれないと考えられます。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米5月住宅建設業者指数45に低下、1月以来の低水準

ビジネス

米企業在庫、3月は0.1%減 市場予想に一致

ワールド

シンガポール、20年ぶりに新首相就任 

ワールド

米、ウクライナに20億ドルの追加軍事支援 防衛事業
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 2

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史も「韻」を踏む

  • 3

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダブルの「大合唱」

  • 4

    それでもインドは中国に勝てない...国内企業の投資意…

  • 5

    マーク・ザッカーバーグ氏インタビュー「なぜAIを無…

  • 6

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 7

    奇跡の成長に取り残された、韓国「貧困高齢者」の苦悩

  • 8

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 9

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 10

    中国のホテルで「麻酔」を打たれ、体を「ギプスで固…

  • 1

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 2

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 3

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋戦争の敗北」を招いた日本社会の大きな弱点とは?

  • 4

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 5

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 6

    「恋人に会いたい」歌姫テイラー・スウィフト...不必…

  • 7

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 8

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 9

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 10

    ウクライナ防空の切り札「機関銃ドローン」、米追加…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 7

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

  • 10

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story