コラム

クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を日本で今すぐ公開するべき理由

2023年07月26日(水)14時30分

現在のアメリカでは、広島の悲惨な映像を公開すること、あるいは首脳が見ることは一種のタブーになっています。それは、そうした行動自体が「アメリカにとっての謝罪行為」であり、国家への反逆だという言い方で批判される危険があるからです。バイデンはそれゆえに、資料館の一部しか見なかったし、この『オッペンハイマー』も同じ理由から惨状の描写を控えたと考えられます。この点に関しては、被爆国である日本として、改めて真剣な問題提起をするべきです。

3番目は、映画の構成です。ノーラン監督は、時間軸に沿って「原爆が開発され、使用され」た後に「オッペンハイマーが赤狩りで追及を受け」、その後に「その黒幕も追及を受ける」という順序で映画を構成しませんでした。先程申し上げたように、この3つの時間軸をバラバラにし、冒頭から「赤狩り疑惑」の要素を観客に突き付けます。要するに「オッペンハイマーはソ連のスパイで、だから水爆開発に反対するなど、反米的だったのか?」という疑問を映画の冒頭で提示しているのです。

これは、あくまで私の私見ですが、保守派もリベラルも含めた広範な観客を、一種のサスペンスに引き込むのが監督の作戦だったと思われます。最終的には「オッペンハイマーは広島・長崎で起きたことに衝撃を受けて、核兵器への疑問を強く持つようになった」という展開を観客に理解させて、「だから水爆開発に反対したのはアメリカへの裏切りではなかった」という「結論」に着地させるようにしています。

ノーマンが仕掛けるマジック

これは非常に高度な脚本、演出のチャレンジで、これによって「核兵器性悪説」を幅広い観客に「漠然と納得させる」というマジックを実現していると評価できます。保守系の映画評サイト「見る価値あり? それともポリコレ?("Worth it or Woke?")」が公開後、数日を経てから、「ポリコレでない」と断定して100点満点の79点をつけていますが、ノーラン監督のマジックに見事に騙されている(?)とも言えます。

ですが、ノーラン監督が巧妙に反核思想を仕込んだというのは、あくまで私個人の感想です。この映画が本当に反核メッセージを込めた作品なのか、この点こそ、被爆国日本、そして被爆者とその周囲の方々の厳しい評価に晒されるべきものと思います。

しかしながら現時点では、この『オッペンハイマー』の日本公開日は決まっていません。日本語字幕の付いた予告編も公になっていないのです。配給会社が政治的論争に巻き込まれるのを嫌っているとか、少なくとも原爆忌や終戦記念日をスルーした後で公開日を決めるのでは、などという憶測が流れています。もしかしたら、日本の観客が「原爆開発映画」を嫌って劇場に行かず、配給しても赤字ということをおそれているのかもしれません。

ですが、ここまで述べてきたように、この映画は明らかに被爆国日本の人々によって評価されるべき作品です。今すぐ公開して、しっかりと必要な論争を行うことが必要です。ノーラン監督も、おそらくはそれを望んでいると思いますし、日本で賛否両論を浴びることで初めて、本当の意味で完結する作品と言っても良いかもしれません。とにかく、現時点で公開が決まっていないというのは異例です。即時公開を強く望みます。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

台湾の頼次期総統、20日の就任式で中国との「現状維

ワールド

イスラエル軍、ガザ北部で攻勢強化 米大統領補佐官が

ワールド

アングル:トランプ氏陣営、本選敗北に備え「異議申し

ビジネス

日本製鉄副会長が来週訪米、USスチール買収で働きか
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた異常」...「極めて重要な発見」とは?

  • 3

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバいのか!?

  • 4

    存在するはずのない系外惑星「ハルラ」をめぐる謎、…

  • 5

    「円安を憂う声」は早晩消えていく

  • 6

    チャールズ英国王、自身の「不気味」な肖像画を見た…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    中国のホテルで「麻酔」を打たれ、体を「ギプスで固…

  • 9

    時速160キロで走行...制御失ったテスラが宙を舞い、4…

  • 10

    英供与車両から巨大な黒煙...ロシアのドローンが「貴…

  • 1

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 2

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 5

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 6

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 7

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 8

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋…

  • 9

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 10

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story