最新記事

歴史

通州事件、尖閣諸島戦時遭難事件... 昭和史に埋もれていた「事件」に光を当てる

2021年8月6日(金)11時20分
早坂 隆(ノンフィクション作家)

後日、樋口のこの決断は関東軍内で問題視された。関東軍司令部に出頭した樋口を尋問したのは、時の関東軍参謀長・東條英機であった。樋口はこの時、東條にこう言い放ったという。「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることを正しいと思われますか」。

東條は「当然の人道上の配慮」として、樋口を不問に付したという。結局、その後もこの「ヒグチ・ルート」は使用され、多くのユダヤ人が命を救われた。

以上が「オトポール事件」の顛末であるが、この救出劇は杉原の「命のビザ」と比べ、ほとんど語り継がれていない。それは外交官だった杉原に対し、樋口が陸軍軍人であったことが理由の一つであろう。戦後、陸軍への批判が強烈に増す中で、「日本軍人の功績」はタブー視された。オトポール事件はこうして「埋もれた事件」となったのである。

しかし、軍人であっても、その行為は是々非々で語られるべきであろう。事実に沿って歴史を伝承することは、決して美化や悪しき修正などではない。

救出劇の目撃者の一人であるイスラエル在住のユダヤ人、クララ・シュバルツベルグさんは、私の取材に対してこう語った。

「ヒグチは偉大な人物です。私たちは心から感謝しています。彼の存在を決して忘れません。日本人はヒグチのことをあまり知らないのですか? それは本当ですか? 日本人は学校で何を習っているのですか?」

尖閣諸島戦時遭難事件〈残されたままの御遺骨〉

昭和20(1945)年7月、沖縄県の石垣島から台湾へ向かう二隻の疎開船が、米軍機の攻撃に晒された。激しい機銃掃射により多くの犠牲者が出たが、そんな遭難船が目指したのが、尖閣諸島の魚釣島だった。乗員の一人だった漁師の男が、「あの島には湧き水がある」と証言したためである。

かつて鰹節の加工で賑わった魚釣島は、この時は無人島になっていた。その漁師は以前、鰹漁の際に魚釣島に滞在した経験があったのである。

こうしてたどり着いた魚釣島には、確かに湧き水はあったが、食糧は乏しかった。遭難者たちは島内に群生するクバ(ビロウ)の茎や若葉を食べて生命を繋いだ。しかし、やがて餓死する者が相次ぐようになった。当時、17歳だった屋部兼久は次のように証言する。

〈上陸してからも毎日毎日、人が死んで行きました。弱った老人がたおれ、負傷した人、子供の順で死んで行くのです。埋葬しようにも硬い岩根の島で、穴が掘れないのです。離れた所に石をつみ上げてとむらいました〉(『沖縄県史 第10巻』)

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

ジョージア「スパイ法案」、大統領が拒否権発動

ビジネス

必要なら利上げも、インフレは今年改善なく=ボウマン

ワールド

台湾の頼次期総統、20日の就任式で中国との「現状維

ワールド

イスラエル軍、ガザ北部で攻勢強化 米大統領補佐官が
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバいのか!?

  • 3

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイジェリアの少年」...経験した偏見と苦難、そして現在の夢

  • 4

    「まるでロイヤルツアー」...メーガン妃とヘンリー王…

  • 5

    時速160キロで走行...制御失ったテスラが宙を舞い、4…

  • 6

    チャールズ英国王、自身の「不気味」な肖像画を見た…

  • 7

    日本とはどこが違う? 韓国ドラマのオリジナルサウン…

  • 8

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 9

    英供与車両から巨大な黒煙...ロシアのドローンが「貴…

  • 10

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 5

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 6

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 7

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 8

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 9

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 10

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 7

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中