「クイーンは4人の若者が共に抱いた夢だった」...メイとテイラーが語る50年
Queen’s Golden Jubilee
80年のアルバム『ザ・ゲーム』でアメリカでのクイーン人気は絶頂に達した。ビルボードのアルバムチャートで第1位を獲得、収録曲の「愛という名の欲望」と「地獄へ道づれ」も大ヒットとなった。
メイは言う。「面白いことに『愛という名の欲望』がアメリカでヒットしていた時、私たちはまだ(アルバムの)残りの曲のミキシングをやっていた。『まだ世に出ていないアルバムなのに、収録曲が既に大ヒットしている。すごいな』と思うと、俄然元気が出た」
テイラーも言う。「ニューヨークのマジソンスクエア・ガーデンで数夜にわたってやったコンサートはたまらなかった。『ついにここまで来たんだな』と思ってね」
「ライブ・エイド」の栄光
それからの80年代、クイーンはさらなるヒットを飛ばす一方で欧州や日本、南米でツアーを行った。85年にロンドンで行われたアフリカの飢餓救済のためのコンサート「ライブ・エイド」での演奏は、クイーンの歴史の中でもとりわけ輝かしい瞬間だった。
メイは80年代を思い起こしてこう語る。「僕らは常に、何度でも生まれ変わってやるという心構えでいた。できるだけ(楽曲制作の)キャンバスを広くしておきたかった。キャンバスを休ませておくことも、お互いを休ませておくこともしなかった。互いに手厳しかったし、過去の成功作の焼き直しは許さなかった」
86年の「マジックツアー」が、初期メンバーが顔をそろえた最後のツアーとなった。90年代に入る頃にはマーキュリーはHIVに感染しており、健康状態は悪化していった。そして名作『イニュエンドウ』がリリースされた91年、11月24日にマーキュリーは亡くなった。享年45。病気を公表した翌日だった。
「つらかった」とテイラーは言う。「フレディがかつての彼でないことは誰の目にも明らかだった。一番つらかったのは、フレディが死んだ後、彼と一緒に作り始めた作品を仕上げなければと決断した時だ。要するにそれが(95年の)アルバム『メイド・イン・ヘヴン』だ。録音テープでまたあの声を聞くのは実に変な感じだった。完成できてよかったと思う」
「人生の中でフレディくらい勇気のある男に出会ったことはない」と、メイは言う。「一度も弱音を吐かず、ひたすら仕事をしていた。彼は自分のつくる音楽を愛していたし、そのことだけを考えていたかったんだ」