最新記事

BOOKS

『悪童日記』訳者・堀茂樹と「翻訳」の世界をのぞく──外国語に接することは「寛容の学校」

2020年2月4日(火)18時05分
Torus(トーラス)by ABEJA

Torus 写真:西田香織

「巻を措く能わず」という言葉がある。

あまりに面白くてページをめくる手がとまらない、最後まで一気読みしてしまう──それほどまでに中毒的な書物に対して使う慣用句だが、私にとって、子ども時代の「没入する」読書体験を久々に呼び起こしてくれたのが、まさにこの本だった。

『悪童日記』。ハンガリー生まれの作家アゴタ・クリストフが1986年、母語ではないフランス語で発表した小説だ。無名の作家による50歳にしてのデビュー作品でありながら、世界中の読書好きの間で熱烈に支持され、やがて文学界を席巻するほどの評価を得る。

日本でも1991年に邦訳が刊行され、口コミでじわりじわりと評判が広まり40万部を超すベストセラーになったが、この訳書を手がけたのが、これまた当時まったくの無名で一介のフリー翻訳者だった堀茂樹・慶応義塾大名誉教授だ。

堀さんの人生を変えたとも言える『悪童日記』との出会いはどんなものだったのか。私たちが「外国語」に接するという行為にはどんな意味があるのか。翻訳家という仕事とは? 突っ込んで聞いてみた。

◇ ◇ ◇

「騙されてみるか」。読み始めたら止まらなくなった。

Torus_hori2.jpg

「悪童日記」三部作のフランス語ペーパーバック 撮影:石川智也


──『悪童日記』を初めて読んだときの興奮は忘れられませんが、堀さんにとってもこの作品との出会いは衝撃的なものだったらしいですね。

堀:忘れもしません、1988年の初夏のことです。私は当時パリ18区の下町、どちらかといえば場末に近いような所に住んでいましたが、家の近くに、いかにも本好きの店主が自分の好きな本を並べるために開いた、といった風情の小さな本屋がありました。

その「アスファルト書店」という名の本屋に、ある土曜日の夕方ぶらりと入ったときに、友人でもある店主から「こいつは掘り出し物だよ」と薦められたのが、『悪童日記』と続編の『ふたりの証拠』だったんです。

彼が言うには、前年のクリスマスに、まだそれほど知られていなかった『悪童日記』を友人に贈ろうとしたら、相手がプレゼント用に持ってきた本も同じものだったらしい。目利きの読書人のあいだでは、すでに注目されていたということですね。

そんなエピソードを少し割り引いて聞きながらも、「まあ騙されてみるか」と購入し、読み始めたら、とにかく止まらない。フランスはその季節、夜9時を過ぎても明るいんですけど、窓辺でページをめくる手が本当に止まらず、夜までに読み終えてしまった。

◇ ◇ ◇

この小説には人名や地名はまったく出てこない。舞台はおそらく、第2次大戦下の東欧の片田舎。語り手は双子の少年だ。戦禍を逃れ祖母に預けられた「ぼくら」は、人々を観察してサバイバル術を一から習得し、盗み、欺き、脅し、殺し、極限下を生き抜く。

そして、目に映った事実のみを、ひとかけらの感情も込めずに「日記」に記していく。その即物的過ぎる文体の奥底には、しかし、強い倫理観とヒューマニズムがほとばしっている。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

台湾の頼次期総統、20日の就任式で中国との「現状維

ワールド

イスラエル軍、ガザ北部で攻勢強化 米大統領補佐官が

ワールド

アングル:トランプ氏陣営、本選敗北に備え「異議申し

ビジネス

日本製鉄副会長が来週訪米、USスチール買収で働きか
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバいのか!?

  • 3

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイジェリアの少年」...経験した偏見と苦難、そして現在の夢

  • 4

    「まるでロイヤルツアー」...メーガン妃とヘンリー王…

  • 5

    時速160キロで走行...制御失ったテスラが宙を舞い、4…

  • 6

    チャールズ英国王、自身の「不気味」な肖像画を見た…

  • 7

    英供与車両から巨大な黒煙...ロシアのドローンが「貴…

  • 8

    日本とはどこが違う? 韓国ドラマのオリジナルサウン…

  • 9

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 10

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 1

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 2

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 3

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 4

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 5

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 6

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 7

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 8

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 9

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 10

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 4

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 5

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 6

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 7

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中