コラム

「ミスター危機管理」はなぜ自らの政治危機を回避できなかったのか

2021年09月06日(月)06時30分

気力を萎えさせた「あの出来事」

ところが、である。3日の臨時役員会で菅首相は突如「不出馬」を表明した。首相の専権事項である「解散」について首相は嘘をついてもいいとされており、それが解散の「不意打ち」性を担保してきた。しかし近年は「退陣」についても同じように「寝耳に水」的な劇場効果が発揮されるようだ。いったい2日夜から3日朝にかけて何があったのか――。

現時点で伝わっている情報によると、8月30日から9月3日にかけての5日間、党役員人事、特に幹事長人事を巡って調整が難航。その交渉過程でこれまで菅再選を基本的に支持していた安倍前首相、麻生副首相との関係が「冷却化」し、総裁選に出馬しても必ず勝てる見込みがなく、再選への意欲が減衰したのではないかという観測が出ている。

しかし、役員・閣僚人事の調整難航はもともと予想されていた。「二階切り」が安倍・麻生両氏の歓心を買うとすれば同時にそれは二階氏周辺の反感も買う。役員刷新と内閣改造を通常国会が閉幕した初夏に断行していたならいざ知らず、総裁選・総選挙直前の人事は「人心一新の賭け」であると同時に「時機に遅れた奇策」でもあり、党内の反発は織り込み済みのはずである。「人事が難航し万策尽きて退陣表明」となったとしても、真相はそれだけではあるまい。

菅首相が3日の官邸ぶら下がり会見で特に語気を強めたのが、コロナ対策と総裁選対応は「莫大なエネルギー」を必要とする、という言葉だ。確かに変異株の感染拡大が収まらない中でのコロナ対策と総裁選を両立させるには大変な肉体的・精神的な負担があろう。しかし、そうした負担を物ともせずに精力的にこなすのが、これまでの菅氏の真骨頂でもあった。いったいどういう心境の変化で気力の限界を吐露するに至ったのか。

菅首相は1996年の初当選以来、一度も自らの選挙で負けたことがない。唯一、薄氷を踏む思いをしたのが、民主党が政権交代を果たした2009年の総選挙だ。神奈川2区における次点の民主党候補(惜敗率99.59%)との得票差は548票。辛勝した菅氏は選挙の厳しさを忘れないように事務所の車に「548」のナンバーをつけているという。地元の横浜では8月の市長選挙を巡る保守分裂の混乱が続いており、2日には自民党神奈川県連幹事長が総裁選について、「県連として特に菅氏を頼むという運動をするつもりは一切ない」と発言した。「横浜の不覚」がもたらした求心力低下は隠しようがなく、厳しい選挙区情勢を伝えるこうした地元の声が案外、菅首相の心境に響いていたのではないか。

また菅氏は会見で、コロナ対策に専念すると複数回述べた 。これは、「総裁再選はないが、新総裁が首班指名選挙を経て新首相に任命されるまで、首相としての立場でコロナ対策に引き続き従事する」ことを意識した発言だろう。総理・総裁分離論的な発言が、総裁かつ首相という「地位」に恋々とするのではなく、コロナ対策という「任務」を任期の最後まで全うするのだという心意気を表すものだとしたら、それは菅氏なりの責任感の表明でもあろう。

プロフィール

北島 純

社会構想⼤学院⼤学教授
東京⼤学法学部卒業、九州大学大学院法務学府修了。駐日デンマーク大使館上席戦略担当官を経て、現在、経済社会システム総合研究所(IESS)客員研究主幹及び経営倫理実践研究センター(BERC)主任研究員を兼務。専門は政治過程論、コンプライアンス、情報戦略。最近の論考に「伝統文化の「盗用」と文化デューデリジェンス ―広告をはじめとする表現活動において「文化の盗用」非難が惹起される蓋然性を事前精査する基準定立の試み―」(社会構想研究第4巻1号、2022)等がある。
Twitter: @kitajimajun

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米PCE価格指数、インフレ率の緩やかな上昇示す 個

ワールド

「トランプ氏と喜んで討議」、バイデン氏が討論会に意

ワールド

国際刑事裁の決定、イスラエルの行動に影響せず=ネタ

ワールド

ロシア中銀、金利16%に据え置き インフレ率は年内
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 2

    「すごい胸でごめんなさい」容姿と演技を酷評された米女優、「過激衣装」写真での切り返しに称賛集まる

  • 3

    中国の最新鋭ステルス爆撃機H20は「恐れるに足らず」──米国防総省

  • 4

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 5

    アカデミー賞監督の「英語スピーチ格差」を考える

  • 6

    大谷選手は被害者だけど「失格」...日本人の弱点は「…

  • 7

    今だからこそ観るべき? インバウンドで増えるK-POP…

  • 8

    19世紀イタリア、全世界を巻き込んだ論争『エドガル…

  • 9

    「性的」批判を一蹴 ローリング・ストーンズMVで妖…

  • 10

    「鳥山明ワールド」は永遠に...世界を魅了した漫画家…

  • 1

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 2

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価」されていると言える理由

  • 3

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた「身体改造」の実態...出土した「遺骨」で初の発見

  • 4

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

  • 5

    医学博士で管理栄養士『100年栄養』の著者が警鐘を鳴…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 8

    「たった1日で1年分」の異常豪雨...「砂漠の地」ドバ…

  • 9

    NewJeans日本デビュー目前に赤信号 所属事務所に親…

  • 10

    「すごい胸でごめんなさい」容姿と演技を酷評された…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の瞬間映像をウクライナ軍が公開...ドネツク州で激戦続く

  • 3

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈する動画...「吹き飛ばされた」と遺族(ロシア報道)

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士…

  • 6

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 10

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story