World Voice

ベネルクスから潮流に抗って

岸本聡子|ベルギー

20年前、移民としてアムステルダムに来て生きてみた

2001年のまだ寒い時期、日本を出た。私は27歳だった。2か月半足らずの赤ん坊といっしょで、長距離のフライトの行き先はオランダのアムステルダム。赤ちゃんと飛行機に乗るのも初めてだった。私は外国人としてヨーロッパで生きることを、期限付きで決めた。母になることも、移民として生きることも全く予期しなかったが、きっとこれは私に与えられた試練だと受け入れた。

パートナーのオリビエも私と同様に環境活動家として青春時代をすごし、大学を卒業した後は環境NGOで活動していた。当時オランダには国が失業者対策として非営利組織で働く人の最低賃金の給料を保証する仕組みがあった。またもっと基本的なところで、生活保障があった。大学を卒業した左派知識人はこの手当をもらいなながら、自分の理想とする仕事を(それがたとえ収入を生まなくても)選択している人が多くいた。また当時多くの活動家たちは、スクオッターに住んでいたし、そうでなくても家賃の安い公営アパートに住んでいた。

アムステルダムをはじめ多くのヨーロッパの都市で80年から90年代はスクオッター運動の最盛期だったと思う。不動産や資本家が投機目的でアパートを購入し、住宅として使用せずに値段が上がるタイミングを待つ。そんな住宅投機がさかんになったころ、使われていない建物を住民がスクオット(占拠)してそこで生活を始めることが、一定の条件を満たせば認められた。さらに1年以上居住を続ければ、建物の所有が合法となり占拠者たちに認めるものだ。日本では想像しにくいことだが、自治体としては住宅投機への対策として作用したし、市民の住む権利を保障することもできた。多くのスクオッターは、情報や文化の発信地となり、カフェやバーを運営したり、ときにはヴィーガンの食事を安く提供することもあり、人々が集まる場所でもあった。市場経済から距離を置いたアナーキーな空間で若者は共同生活を楽しみ、そんな文化的な空間が街のあちこちにある。寛容と多様性は都市をより魅力的にした。

私がアムステルダムに到着したのは、そんな古き良き時代の最終局面だったように思える。もちろんすべてが変わったわけではないが、それからの約20年でオランダ社会もアムステルダムも大きく変わった。私がヨーロッパで生きた過去20年は新自由主義が浸透し、受け入れられ、深化し、庶民の生活や社会関係を具体的に変えていったと時間だった。私が到着した間もなく起きた2001911日の同時多発テロは社会を一変させる破壊力を持ったし、その後の政治風景を大きく変えた。

私たちは小さなアパートでつつましい生活をスタートさせた。生まれたばかりの赤ちゃんとともに。私は政治迫害、経済困難、環境危機、戦争などやむを得ない理由で国を出たわけではなく、はっきりと自分の意志できたので難民ではないが、自分を移民一世と強く認識している。このような感覚は、欧州に住む日本人に共有されているわけでないと思う。在欧日本人の多くは企業などの駐在者とその家族や留学生で、両社とも一時的な滞在であるし、社会の中ではお客さん的な存在だ。私のようにパートナーとの関係で移り住んだ人たちの中でも、自分たちの存在をトルコやモロッコからの移民と同じ目線で考える人は少ない気がする。

アムステルダムは私が来た当時から人口の半分以上が外国にルーツをもつ人たちである。その中で一番多いのがトルコ人、モロッコ人とスリナム人だ。スリナムはオランダの旧植民地の南米の小国である。また旧植民地であったインドネシアからはもっと早い時期に多くが移り住んだ。オランダの労働力不足を補うために、またよりよい経済業況を求めた人々が60年代後半から多く移民したためだ。70年代にはその家族も移り住んだ。現在、その子どもたちが二世として暮らしている。アムステルダムに住んでいれば、人口の多様性を日々、自然に感じる。町を歩けば、ヘッドスカーフに長いドレスを着たムスリムの女性が数人の子どもを連れているし、パン屋、魚、野菜、肉屋などの商店の多くは移民が経営している。近所のインドネシアやトルコ料理の食堂や総菜屋ももちろんそうだ。

私が特にお世話になったのは、イラン出身のおじちゃんのコインランドリー(うちには洗濯機がかなかった)とモロッコ出身のおじちゃんがきりもりする洋服の修繕屋さんだった。コインランドリーでは当然自分で洗濯できるが、少し料金を上乗せするとおじちゃんが洗い終わったものを乾燥機に入れて乾いた洗濯物をたたんでくれた。小さな子どもを抱えてコインランドリーで待たなくてもよいので私はとても助かった。穴の開いたズボンを直すのも、裾上げも丁寧にしてくれる修繕屋さんのおじさんにはその後数年にわたって本当にお世話になった。移民というとホテルの部屋のお掃除など低賃金の仕事に従事するというイメージが強いが(そして実際にそれは事実であるが)、それ以外にも自分のちのルーツや技術を生かして様々な仕事に従事している。その多くは重労働の割には低賃金のためオランダ人がやらなくなった仕事だ。多文化多民族国家オランダその中心であるアムステルダムの魅力の一つは確実にこのような移民たちが紡ぐ文化や食の多様性である。

数年を経て、息子が小学校に通い始めると教育の場から私は多文化多民族社会をもっと学ぶことになる。今でもそうであるが、アムステルダムで小学校の主要な課題の一つは、確実に民族や宗教に関係している。移民の家族とくに一世は日常会話でオランダ語ができても、オランダ語の教育の学習の手伝いを積極的にできる家族はそう多くはない。移民の家族は家では当然自国の言葉を話す。また子どもの数も白人オランダ人より多く、労働時間も長いことが多い。そのような環境でこどもの学習(成績)に差が出てくるのは必然的な帰結だ。私はオランダ語ができなせいで、学校の学習のサポートが全くできないため、その様子はわかる。うちの場合はオリビエが学習支援ができるので幸運なだけだ。

多様なバックグランドの子どもたちと向き合う教育現場の課題は当然大きいし、理想なんてありえないが、私の息子はアムステルダムでのびのびと楽しい学校生活を送ることができた。小学校では原則として宿題をだしてはいけない。子どものハッピーネスを大事にするオランダの初等教育の私が一番好きなところだ。学習に多少差があるとしても基礎教育を受けた移民二世の子どもたちは、オランダ語をネイティブ同様に話し、試験をこなし、オランダ人の子どもと同じように中学・高校に進学する。一世がどんなに努力をしても果たせない完全な社会統合を、彼女彼らは教育を通じて自然に見事にやってのける。私はそれをシンプルに素敵だなと思う。より困難であるのは事実だが(そして差別や不平等があるのは事実だが)、彼女彼ら2世の多くはオランダ人と同じ土俵で、高等教育を受け労働市場で競争できる。実際、息子も移民2世で、オランダ語を母語として育った。

自国ではエンジニアや医療関係の専門職についていた一世も多く、それでもよりよい雇用機会を求めてヨーロッパに移住する移民家族と接する中で、これは世代を超えたプロジェクトなんだと思うようになった。一世は自分のキャリアや専門をあきらめて賃金を得るための労働に従事しながら、子どもがヨーロッパの労働市場で雇用機会を得られるように教育を受けさせる。公教育が重要なのは言うまでもない。そして高等教育が経済的な能力に関わらず開かれていなければ、より平等な社会は実現しない。日本にいたころには日本で暮らす外国人のことを考えることはほとんどなかった。自分が外国人となり、自分の社会統合の壁にクラクラしながらも5年を過ぎたころに地方選挙の参政権を得たときはうれしかった。日本に長期で暮らし税金も納めている外国人に地方政治への参政権がないことも、今ははっきりとおかしいと思う。

 

Profile

著者プロフィール
岸本聡子

1974年生まれ、東京出身。2001年にオランダに移住、2003年よりアムステルダムの政策研究NGO トランスナショナル研究所(TNI)の研究員。現在ベルギー在住。環境と地域と人を守る公共政策のリサーチと社会運動の支援が仕事。長年のテーマは水道、公共サービス、人権、脱民営化。最近のテーマは経済の民主化、ミュニシパリズム、ジャストトランジッションなど。著書に『水道、再び公営化!欧州・水の闘いから日本が学ぶこと』(2020年集英社新書)。趣味はジョギング、料理、空手の稽古(沖縄剛柔流)。

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